「古川町っていつできたの!?」
昨日 ご宿泊のお客様に質問されました。
・・・以外に住んでいる町のことは知っているようで知らないことが多く
お客様とお話しするたびに また一つ勉強し賢くなった気がします(^^;)
早速一夜漬け!?ならぬ5分漬けで本を開き
おおよその成り立ちをご説明させていただきましたが
折角なので皆様にもチラッとご紹介させていただきます。
古川町では町内各所から縄文時代の遺物や竪穴敷き住居跡、古墳群などが見つかり
遠く原始、古代より人類が居住していたということがわかっています。
(飛騨人は縄文人説が唱えられていることを聞いたことがあります。)
文献によると1335年、南朝の命を受けた藤原氏が国司として小鷹利城(古川町太江)を居城、1400年頃には公家の姉小路基綱が4代に渡って飛騨国を治めたそうです。
その後戦国時代に入っての1585年金森長近が羽柴秀吉の命を受けて飛騨を平定、
まずは高山に城を築きました。
金森氏はさらに飛騨の穀倉地帯と 北部の守りを固めるべく
古川盆地の要衛である古川に増島城を築城、
それからというもの 古川町は城下町として発達し
古川盆地における政治、経済、文化の中心として繁栄しました。
城下町の建設は増島城と共に開始されましたが
城主金森可重は城下の商いについて
1、商人には課役を免除すること
1、現物を見て売買すること、
1、おしうり おしかい まかりならぬ
との定めを出しています。
金森氏の治政は107年間続きましたが
1692年に飛騨は幕府の天領となり
以来明治まで代官、郡代の支配下となり(中略)
現在に至っています。
という感じで
あまりにも当たり前の話ですが
どの地 どの場所にも刻まれた歴史があり
今の私たちへと繋がっているのは自明のことです。
とは云え 都会化の進んだ場所では僅かに石碑などで痕跡を留めているだけで
“視覚的”にその系譜を感じ取ることは容易ではありません。
その点 この古川をはじめとする飛騨エリアは
ガラパゴス?のように生気を保ちつつ
【中略】部分を飛び越えた息遣いを今も感じることができる町だと思っております。
そしてその点は、ご滞在いただくと
“視覚”を通り越して
漂う“空気感”や“暮らし方”からヒシヒシとお感じいただけるのではないでしょうか。
そんな蛇足をも思いながら“しっかりと知る”という大切さを
折々に思うのでした。