山本薩夫監督 生誕100年

社会派映画でしられる山本薩夫監督が今年生誕100年を迎えます。

医学界の闇をあぶりだした『白い巨塔』や
金融界の裏をあばいた『華麗なる一族』をはじめ 
社会悪や不正に鋭く切り込み 反骨精神旺盛な作品を世に送り出しました。

晩年の作品となった『あゝ野麦峠』は私たち飛騨人にとって 
何といっても思い入れの深い作品となりました。

(以下は 私の曽祖父の思い出の記に記されていたものを参考にいたしました)
『あゝ野麦峠』は
昭和43年10月10日に朝日新聞社から発刊された山本茂美原作のルポルタージュで
映画化されるまではいろいろと経緯があったようですが
『かつての工女の生きているうちにに映画化してぜひ見せてやりたい』と
おっしゃっていらっしゃった山本茂美さんの念願がよやく叶う形となりました。

S53年5月29日のある新聞に
『三度目の正直、山本薩夫監督メガホン 仙台市の社長バックアップ』
という見出しに大々的に出たということを 曽祖父はしっかりと書き留めております。

S53年の秋、現地調査に数回にわたって10人ほどでスタッフの方がいらっしゃいました。
翌年12月にはいると監督を初め
出演者、美術、照明、カメラマンの皆さんが総勢70名、
現在の招月楼(当時は7部屋)と光月楼(当時は2部屋)の9部屋と
中小の宴会場や現在のロビーでも寝泊りしていただいた記憶があります。

当館は2ヶ月間全館休業し 一家を挙げて全面協力しました。
まず撮影が始まるにあたり 
国のため、親のため、幼い身で苦労をしながら散っていった工女の菩提を弔うために 
監督、プロデューサーなど集まり お経を上げ冥福をお祈りしました。

撮影の山はなんと言っても冬の景色と 雪の峠越え 
この年の冬は異常な暖冬で12月撮影に入る予定が雪がなく1ヶ月延期、
1月に再開したもののまだ雪がなく
乗鞍の日影平からトラック15杯もの雪を運び 
高山の上一之町、当館の玄関、瀬戸川通りなどにまかれました。

その間 当館ではお弁当を作って配達したり 毎朝晩の夕食の接待をしたりと
大忙し。

かくして出来上がった映画が飛騨で公開となったとき 当時の新聞によると
『高山や古川の映画館には年を取った元工女らが詰めかけて
映画が終わるとみなスクリーンに向かって丁寧に合唱してから立ち去った』とあります。

この偉大な監督を偲び
銀座シネパトスでは3/7まで「氷点」「戦争と平和」
6月には名画保存会によって四谷区民ホールで『あゝ野麦峠』が上映される予定です。

理不尽な現実に立ち向かいながら生きてきた人々を映し出してきた監督、
閉塞感漂う今日に山本監督生誕100年という節目を迎えることは 
必然だったのかもしれません。

監督の墓碑にはこんな言葉が刻まれています。
「映画は真実を伝える眼であり政治や社会の不正を批判し
本当に大衆の幸福を願うものでありたいものだ」

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