「男の隠れ家」という雑誌の副編集長をお務めの女史。
同年代ながら凡人が接していても
ひしひしと感じるその溢れんばかりの才気。
具体的に挙げるならば
その引き込まれざるを得ない編集構成力。
そして美しい単語群を繰り
それをなだらかに波打つ穏やかな海原のように
ひたひたと心に染み入る「文章」という面に落とし込む文力。
にも関わらず、全く人を食ったようなところがなく
かえって人の煩悩を(意識的にか無意識にか?)塩梅よく自ら披見してくれる
お茶目な御仁。
尊敬して止まない方の一人ですが
仕事柄か、そんな方の“人間力”のミナモトはやはり人間なのだと知らされます。
最近発刊の「古刹と仏像を巡る旅」と題された1月号での対談記事。
今を時めく玄侑宗久(げんゆう そうきゅう)さん。
作家として仏教家として大変著名な方です。
感動した件(くだり)がありましたので引用させていただきます。
~以下 引用 ~
仏像に手を合わせて祈ること
それは祈っている本人に見返りがくるといったことではないのが
こうして話をしているとわかると思います。
私がした良いことの見返りが私にきた場合は「功徳(くどく)」といいますが
他の誰かがしてくれた良いことが私に返ってきた場合
それは「ご利益(りやく)」といいます。
私とか他人の別なく
“良いこと”の結果はどこに降りるのかわからないのです。
しかしそれがどこであっても、善を行じようというのが仏道でしょう。
つまり、拝むことは功徳を期待するものではなくて
自分の中に眠っている希有な力、尊い力を信じてそこに近づこうという行為。
そういういろんな不思議を内包して今生きているのが有難いなあ
という気持ちの表現と考えてはどうでしょうか。
~以上 引用終わり~
私は勿論求道者でもなく、ただ産まれた時から家には仏壇があり
何となく手を合わせ
人との別れの際に最もその(いわゆる仏教との)接点を多く感じる
ごく一般的で典型的?な日本人なのですが
こんな素敵な考えを知らしめてくれたら
もう少し深く立ち入ってもいいなあ、と思わずにはいられませんでした。
またこんな件もありました。
~以下 引用~
いわば仏教の理念を「風格」と呼びたい美として
封じ込めたのが仏像かもしれません。
~以上 引用終わり~
これなんかもウチの主人のように偶像崇拝を毛嫌いする人に対する
一つの大きな包み込むような暖風ではないでしょうか。
こんな素敵なお考えを持った方と接することの出来る“役得”。
そしてこういう台詞を口に上らせて頂けるよう引き出す“力”。
凄い人が益々雪達磨式に凄くなっていく必然の方程式が隠されていました。
私も“ほぼ毎日更新”を目標に始めたブログですが
文章を書くというのは時として
と云うか何時でも大変な心労を費やすものです。
これを本業にして、また毎日毎月毎年行うと考えると
その要求される胆力を思っただけでも卒倒しそうな気がします。
でも、このような素敵な出会いの期待が散りばめられた編集という仕事には
それを慮っても余りある魅力がきっとあるのですね。
少なくともそのような能力も気力もそして環境にもない私は
とりあえず、未だ御名を知るだけで著作を読んだことのない玄侑さんの本を
近いうちに手にとってみようとだけ、思いました。